盆踊り@月窓寺 ― 2009年08月01日 23時23分23秒

近所の月窓寺というお寺の境内で盆踊りと縁日。昼間っから浴衣に着替えた子供が張り切って出かけた。日中は仕事してたので夕方から合流。焼き鳥と味噌キュウリとタイ風えびせんでビールをいただきました。吉祥寺界隈の夏祭りは地元の商店街などの有志が運営しているものが多く例えばフレンチレストランやタイレストランやビストロが店を出したりしているので食べ物がどれも美味しくて値段も良心的なのである。子供の遊びでもくじ引きや輪投げや金魚すくいやヨーヨー釣りなどどれもみんな100円だししかもうまく取れなくてもたっぷりとサービスしてくれる。これになれると他の祭りなんかでテキ屋さんの店には全く足が向かなくなる。ごめんね。だって味も量も値段も全然違うんだもの。夜になって盆踊りも盛り上がってきたので輪に入って踊ってみたらえらく難しい。手本の人のような滑らかな手の動きは全くできず。人が見たら動きがガチガチできっとみっともないんだろうな。月末にはまた錦糸町で河内音頭大盆踊り大会が待っている。
久住昌之さん切り絵展 ― 2009年08月02日 23時23分23秒

信濃町のアートコンプレックスセンターに久住昌之さんの切り絵展を見に行く。最終日だったので夜にはミニライブが開かれた。チューリップハットとロンゲにジーパンに下駄履きの“坂本Q一”が、太鼓とピアニカを従えてYMOやクラフトワークの曲をフォークスタイルで歌うというオモロいライブ。しっかり笑ったけど今回の切り絵作品にもなっていたプロレスの故三沢選手にちなんで歌われた「馬場」という長〜い歌はけっこうジンときた。プロレスって昭和の頃はみんなの娯楽だったなあ。小学生の時俺は父親が好きなのもあってず〜〜〜っと「ワールドプロレスリング」見てたんだけどおかげでクラスの男子のほぼ皆が見ていた「太陽にほえろ」は一度も見たことがなかった……。今あの人間風車ビル・ロビンソンはなんと高円寺に住んでるらしいとかそんな話題もたくさん飛び出した打ち上げにも参加させてもらい会場近くの安くて美味しい中華料理店でワイワイと飲み食いして帰ってきたのでした。
高知行き。一日目 ― 2009年08月08日 23時23分23秒

この夏休み最初の家族での遠出。ご近所さんのお友達家族と一緒に高知に行った。現地でまた別のお友達家族と合流して一緒に遊ぼうという予定である。四国は松山〜宇和島についで2度目。(小学生の頃岡山から宇高線に乗って香川県の屋島だけ日帰りで行ったがそれはまあよい)折からの台風で天気はよくなくて海で遊ぶのはちょいと無理ということで仁淀川の河原に連れて行ってもらう。高知と言えば四万十川が有名だがそれはもっと西に行かなければならなくて今回はパス。高知って東西に広いのです。さてその仁淀川に到着。早速水着に着替えて川遊び。川岸の崖によじ登り深みめがけて飛び込む。最初は2メートル、3メートル、そして5メートル、子供達は唇を紫にしながらも楽しそうに何度も飛び込む。今回は父さん母さんも飛び込んだ。ガキの頃から映像なんかで地方の子供が川に飛び込むのを見て憧れてたんだが40もとうに過ぎてそれが実現した。感涙である。おおげさな。水に潜れば目の前には鮎や石斑魚や鮠やモロコや鰍がうじゃうじゃと泳いでいる。捕まえてみたいがそれはとうてい無理な話。山間に日が暮れそうになり子供達の体が冷えきるまで遊んで、そのまま宿に向かった。途中では四万十川にもかかっていることで有名な「沈下橋」を見せてもらう。宿に着き風呂に入り着替えがすんだらさあ土佐の晩餐、藁を焼いて作った鰹のたたきが皿鉢料理ふうに盛りつけられてじゃじゃあんと登場。おどろくほど美味い。薬味をどっかんどかんと載せて食べるのがこちらの流儀だそうでここは素直にそれに従い柚子スダチワケギ生のニンニク大葉茗荷に生姜なんかをたたきと一緒にぐわっしととってポン酢にヒタリ、そしてガバリと食べる。あふあふ。これもおろろくほろ美味い。脇には超辛口の地酒「司牡丹・船中八策」。美味い。その横には黒潮でもまれた魚介の刺身やこの宿の売りでもある伊勢海老の料理。もうろれもめひゃめひゃに美味い。天麩羅について出てきたご飯は高知の「香り米」。これを食べるとやっぱりここは東南アジアから黒潮にのってやってきた文化なんだなあと思う。タイやラオスの料理屋なんかにある指でこねて食べる餅米「カオニャオ」とすごく似ている。小さく丸めて塩をちょいとつけてお口にポイ。いやこれも美味かった。今日は海には行けなかったけど子供達もお腹いっぱいになったら満足そうに瞬間爆睡。そういう俺もいつ眠ったかも憶えていない南国高知の一日目でした。
高知行き。二日目 ― 2009年08月09日 23時23分23秒

高知二日目。日本の近くで突如発生した台風の影響で雨雨雨。6時に起きて近くの桂浜を雨の中散歩する。こぢんまりときれいな浜だがでかでかと遊泳禁止の看板が掲げられている。黒潮に面した高知の海はとにかく潮流が速いのでよっぽど穏やかな入り江でないと遊泳禁止だそうである。気軽に波打ち際で遊んでいるだけでも波にさらわれてしまう人が後を絶たないそうで恐ろしい。遠浅ならぬ超近深らしい。この辺は同じ南国でも超遠浅のリーフに囲まれた穏やかな海を持つ沖縄と違うところ。土佐二郎という鶏の新鮮な玉子も並んだ朝飯の後、今日のこの天気では海で遊べないのでそれではということで有名な日曜市を見物に行く。市内の道路脇に延々と続く小さい露店。売っている野菜はどれも巨大でパワフルでワイルド。茄子の大きいのは大根ぐらいあるしキュウリも30〜40センチはありそうだしオクラはキュウリぐらいの大きさで土生姜など野球のグローブみたいである。聞くと一般に流通する規格外のものをここで安く売っているのだそう。トマトだけを売る店。素朴な山あいの料理、蒟蒻や筍、茗荷で作った田舎寿司。自家製の沢庵やイタドリの漬け物。自家製の柚子ジュース。干物。花。焼き物。ところてんや冷やしアメ。生きた蟹。この日は出ていなかったが骨董や犬猫を売る露店も出るらしい。日曜市見物の後は少し前に東京でも流行った屋台村のような市場で昼食。よさこい祭りと日にちが重なったので観光客が多いが活気があって楽しい。すれちがうお姉さんがスナックコーナーで買ったホットドッグやソフトドリンクと鰹のたたきを運んでいる。こちらでは親子連れがたこ焼きと鰹のたたきを食べている。中心にある有名店では鰹のたたきの定食に行列が出来ている。なんかどこのテーブルを見てもたたきだらけで面白い。昼食の後は、日本三大鍾乳洞のひとつという龍河洞へ連れて行ってもらった。ふだんは静かだそうだが悪天候のためか結構人は多い。鍾乳洞は初めてだったけど想像してたよりもずっと楽しかった。これで炎天下の暑い日だったらもっと気持ちよかっただろうに。その後はやなせたかし先生が出身地の村に自腹で建てた「アンパンマンミュージアム」に向かう。ここも家族連れで賑わっている。もう子供達もアンパンマンに萌える歳でもないので反応はクールでした。アクリルによるペインティングがなかなかよかった。帰りの車中でいろいろとやなせ先生の地元での活躍や貢献ぶり、キャラクターの数をギネスブックに申請したときの裏話を聞き、そのやなせ先生に便りきってキャラクタービジネスに無頓着な高知の人々の話も聞いた。素晴らしくそして面白かった。わはは。俺はすっかりやなせ先生のことが好きになりました。夕方宿に戻って風呂。昨夜におとらないうまうまの飯とぴきぴきの酒。食後広間で子供達はわいわいと遊んで明朝に大阪に着く深夜バスに乗るためうちの家族はここでお別れし、市内の乗り場に向かった。初めての高知、堪能しました。時間をおかずにまた来たくなったほどです。高知のご家族方、二日間いろいろと案内してくださってどうもありがとうございました。
帰省@大阪。一日目 ― 2009年08月10日 23時23分23秒

豪雨の徳島〜淡路〜瀬戸内海を通ってバスを降りたらそこは大阪梅田だった。ず〜っと寝てたけど。最近の高速バスは前後の座席間隔も広くて楽になったもんだ。前に乗ったのはまだ学生の頃だもんなあ。梅田からJRに乗って実家に到着。またもや天気はよくないので父親の墓参りをすませたあとはだらだらと過ごす。姪っ子が来ていたのでうちの子供達も喜んで一緒にカルタやトランプやお絵描きをして遊んでいる。こんどは雨がおさまってきたので庭に出てスイカ割り。割れたスイカをくりぬいてジャックオーランタンを作ってろうそくをともして夕食。その後は花火。陽射しはないけど、なんだか夏ですなあ。
帰省@大阪。二日目 ― 2009年08月11日 23時23分23秒

そして大阪二日目。なんとか雨はあがった。朝に宿題をやらせた後はスイカに花火と来たら次はもうこれしかないということで姪っ子も含めた4人で市民プールに行った。市民プールとかいいながらここには百数十メートルもあるスライダーが2本と流れるプールに滝もあるので話を聞いただけで子供達は興奮している。さらに階上の室内には通常の25Mプールと小さめのスライダーと流れるプールもあって豪華である。いっぱい遊ぼうと早めに支度をして着いたのは朝の10時だが子供達はもうフルスロットルで遊びはじめた。自分が小学生の頃に親に連れられたり友達と一緒に行ったいろんなレジャープールを思い出す。きっと俺も夢中で遊んでたはずだ。こいつらも楽しいんだろうなあ。お昼にはばあちゃんが作ったおにぎりを食べてソーセージを食べてシューマイを食べてさらに遊ぶ。2本のうち1本のスライダーに乗るときはフロートに乗るのだが、ここには他のプールでもよく見る浮き輪型に加えてカヌータイプの細長いフロートもあってこれがコーナーでは外に飛び出しそうに感じるくらいのスピードを出すので特に人気がある。俺も子供にせがまれて一緒に乗ってみたが子供同士で乗るときよりもはるかに速いらしく怖い面白いわーわーきゃーきゃーと大喜びである。でも50分は軽く並んだな。そして営業終了直前の18時15分まで存分に存分に遊ばせて着替えてアイス食って帰宅。休憩時間をさっ引いても7時間は遊んでたことになる。よし。よく遊んだ。夜は高知土産の鮎の開きと沢庵でしみじみと冷たいビール。なんだか夏ですなあ。
デレク・トラックスバンド ― 2009年08月12日 14時30分51秒

そして東京である。去年の5月にライブをして以来メンバーのいろいろな事情で活動を飲み会だけに絞っている感もある我がバンドBlackEyedZepのメンバーとまた飲んだ笑い。麻布十番のトラットリアでワインをじゃぶじゃぶと飲みながらそれぞれの近況報告や今後の活動や無意味な下ねたやくるみ割り人形の話などで盛り上がる。たったらたたったったったった〜。たったらたたったったったった〜。秋頃からは活動を再開できるかもしれないので俺もそろそろスタジオに入ってリハビリしないといけない。楽しみ楽しみ。散会のあとよしゃあいいのに新宿御苑前のロックバーにふらふらといってしまった。ここではバディ・ガイのアニバーサリーっぽいライブ@シカゴの映像を流していて、ロスロボスやジェフ・ベックやクラプトン&S・ウィンウッドなどがその前座をつとめていた。気になったのがジェフ・ベックんとこのきゃわいいベーシスト♡とクラプトンとこのギター、デレク・トラックス。おい今更かよと言われるかもしれないが、すみません私見たの初めてでした。ギブソンSGをスライドとフィンガーピッキングで弾きまくるデレク・トラックス、いい! もろ好み! と思ってたらこんどドゥービーと一緒に来日するそうなんだけどチケット高くて子持ちのお父ちゃんには行けねえや。ちぇ。単独でやってくれよ。もう。と愚痴りながら酔眼朦朧。しかしそれでもこの日はちゃあんと電車で帰ったのでした。画像は高知の龍河洞。涼しそうでしょ。
Les Paul ― 2009年08月13日 23時45分56秒
ギタリストのレス・ポールさんが亡くなりました。94歳。生涯ミュージシャン。今ごろは地球上世界中のギター弾き、レス・ポール弾きが追悼していることでしょう。久住昌之さんのブログで紹介されていたかっこいいCMをここにも貼ってみます。もう見た人もいると思いますがどうぞ。最後の一言がしびれます。ついでに言えば、CGばっかりの日本のCM、もうちょっと頑張ってくれ〜。上方落語の「地獄八景亡者戯」風に言えば、今頃あちらではそうそうたるメンバーによる凄いセッションが繰り広げられているかもしれません。レス・ポールさんが地獄に行くとは思いませんがね。
林家彦いち&桂かい枝二人会@下北沢 ― 2009年08月14日 23時23分23秒

上の子が小2〜小3の頃に初めてファン(?)になった芸能人林家彦いちと上方は桂文枝一門の若手(でもないか)かい枝による二人会に行った。地元の地域寄席「吉祥寺寄席」の席亭さんが上の子のためにご招待してくださったので主賓は子供で俺はあくまでもつきそいである。スズナリのとなりの小さなハコ。二人のトークから始まった。彦いちはいつものように体育会系のトークが冴える。かい枝くんは、英語落語で全米ツアーをやったのをテレビで見かけたことがある。家族とキャンピングカーに乗ってアメリカ33都市を走破したらしい。話もなかなか面白い。その後二人で新作を交互にやって、彦いち得意のスライドショーをはさみ、中入り後はまた交代で一席ずつ。予定終了時刻をかるくオーバーする喋りっぷりサービスぶりで、終演後に楽屋に連れてってもらったりして子供も満足した様子。学校の友達にはなかなかわかってもらえないだろうけど。
八月十五日 ― 2009年08月15日 12時00分00秒

義母の二人の兄つまり義伯父(?)二人は第二次大戦で戦死した。ともに二十代である。一人は軍医として沖縄で一人は確かフィリピンの洋上で帰らぬ人となったと聞いている。以前も画像を載せたことがあったがこれはフィリピンで亡くなった伯父が昭和15年19歳の浪人時代に描いていた手のひらサイズのスケッチブック。義母が亡くなった時に形見分けでいただいたものである。筆ペンもたぶんボールペンもシャーペンもないもう70年にもなろうという昔。この軍艦の絵の脇に書かれている歌詞は「太平洋行進曲」。ほかに水彩のスケッチや風刺画や浪人の自分を鼓舞するような言葉を書いたものもある。まだ十代の伯父がどんな毎日を送っていたかはほんのほんのかすかな想像しかできないが俺の同時期や最近の十代の同時期とはるかに違うことだけはよくわかる。15年ほど前、義母の代わりに、遺族としてカミさんと一緒に生き残った方々、伯父と同隊の方々の慰霊祭に顔を出し会食をしたことがある。参加された皆さんは南洋上での事や会ったことのない伯父についていろいろと話をしてくれた。すでに皆さんご高齢だったので今はもうその会は開かれていないが、いい体験だったと思っている。第二次大戦体験者の生の話は、聞けるうちに聞いておいたほうが良いといつもこの日になると思う。そして俺ももっとしっかりと生きていかなければいかんね。
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